◎地区の概要 令和4年3月31日現在

  笠岡市山口・新賀地区

 ①対象人口 1,469人(男706 女763)

 ②総世帯数 701世帯

 ③面  積 8.78平方㎞

 

 ○ 地域の顔

    私たちの新山は「にいやま」と呼びます。

    昭和28年に、今の笠岡市に合併するまでは、岡山県小田郡新山村という独立した村でし

   た。新山村の誕生は(明治21年市町村制の公布)明治22年に当時の山口村と新賀村が合併

   して新山村になったものです。

    江戸時代からの天領、港町笠岡と、県北成羽を結ぶ旧街道の往来が近くを通っていて古くか 

   ら開けたところでした。

    この地域の主な産業は、農業でした。農業、畑作に加えて果樹、園芸が盛んで特に桃、柿の

   栽培が盛んでした。

    ところが残念ながら、私たちの新山も他の農業地域と同じく、専業農業人口は少なくなり、

   農作業の多くが高齢者と主婦の手にゆだねられているようになりました。しかし、これは過疎

   化といったことではなく、機動化や交通網が整備されるにつれて福山、水島、倉敷、岡山など 

   商工業地域へ通勤が容易になった為に若い働き手が商業・工業地域へ流出したことによるもの

   です。時代の流れとはいえ、先人たちが築き残した農業技術と多くのすぐれた特産品が時を経

   ずして失われてしまいます。

    今、私たちはこれらと共存しながら地域活性化に取り組まなければならないと考えていま

   す。そんな中、平成22年休耕田、耕作放棄地や遊休地の環境整備を含めて、地区内有志に

   よる稲作中心の耕作組合が立ち上がり復活の兆しで、農業に活気が出ています。

    平成25年地区自治会(まちづくり協議会)が発足し、公民館をはじめ各種団体共に三世代  

   交流、活性化に取り組んでいます。

    平成28年地域おこし協力隊員の移住もあり、活性化の励みになっている。

 

 ○ 文化のかおり

    私たちの新山は、どこにでもある、小さな農村です。しかし、そこにも幾千年もの生活の顔

   歴史が積み重ねられて、今日を迎えているのです。

    春には周辺の山麓は桃の花色に映え、夏は川に蛍が飛び交います。秋には日一日と

   黄金色に変わり、山々は紅色に彩られます。

    今、私たちが忘れかけている四季の移ろいが、昔のままに残っている故郷が「にいやま」

   なのです。

    平成30年発足20周年を迎えた「にいやま文化を楽しみ育てる会」が中心に活発に継承

   活動を行っています。

             

にいやまの文化財 自慢スポット

 

井笠鉄道記念館(旧井笠鉄道新山駅)

 

 井笠鉄道は、井笠鉄道(株)(明治44年創立:旧井原笠岡軽便鉄道(株))が、大正2年(1913)11月に井原~笠岡間約20kmを開通させ、昭和46年(1971)3月鉄道部門を廃止するまで58年間、産業と住民の足として地域に貢献し、多くの人々に親しまれてきた。その後、新山駅は、地元の荷物取扱所として存続され、昭和56年(1981)7月、井笠鉄道創立70周年を記念して、元新山駅舎は「井笠鉄道記念館」として生まれ変わりオープンしている。記念館には、営業時に使用していた備品や当時の写真などとともに開業時にドイツのコッペル社から購入した蒸気機関車(アーサコッペル1号)と客車(ホハ1号)、貨物車(ホワフ1号)が展示されている。機関車はもうもうと煙を吐いて疾駆し、沿道の家々に汽笛で時を知らせてきた実物である。展示室は、「新山驛」という当時の木製看板をかけたまま、貴重な資料がところ狭しと並べてある。 (伝えたいわがふるさとP94) 

 

●ところ 〒714-0007 岡山県笠岡市山口1457-8

●問合わせ TEL 0865-65-2706

●時間  9:00~17:00 ●入場無料 ●P 5台

●休館日 月曜日(月曜日が祝日のときはその翌日)、年末年始

●🚌 井笠バスカンパニー/笠岡~矢掛線【新山】下車。徒歩10分

●🚙 山陽自動車道笠岡インターから約10分

     

旧井笠鉄道新山駅前商店街

 

 大正2年(1913)に、井原と笠岡を結ぶ井笠鉄道が開通して以来、旧新山駅の周りには駅前商店街が形成され、多くの乗降客や地域の人々などが利用していた。昭和20年代の記録によると、駅前には、「新山村役場」「新山農業協同組合」「農協の精米所や醤油工場、青果物集荷場」「運送店」「散髪屋」「鍛冶屋」「製材所」「旅館(頃末亭)」「本屋」「商店2軒」などが立ち並び、この地の政治や経済の中心地を形成していた。また、駅構内には貨車引込線があり、果樹王国と呼ばれた新山特産の桃や柿などの果物の出荷時期には、駅前を多くの貨車が行き来していた。その後、農協にはスーパーマーケットや魚屋が出店し、買い物客で賑わっていた。やがて、車社会に押されて、昭和46年(1971)井笠鉄道が廃止となるとともに、駅前商店街も衰退し、今では井笠鉄道記念館や商店など一部の建物に当時の面影が偲ばれるだけである。 (伝えたいわがふるさとP93-94) 

 

土倉屋敷(とくらやしき)

 

 旧山口村の庄屋であった屋敷であり、敷地面積が約2000㎡、建物が母屋と離れを合わせて400㎡の格式高い邸宅である。明治4年(1871)に庄屋制度が廃止されてからは

治部右衛門が山口区長となり、その後明治から昭和にかけて、克己氏・明己氏と三代にわたり、新山村長を務めた。克己氏の長女である土倉恒先生は、東京女医学校を卒業後、日本女医会理事や副会長を務めるなか、郷土山口発展を願い、昭和37年(1962)に新山小学校体育館建築のため多額の寄付、昭和42年(1967)新吉中学校体育館へ緞帳を寄付、そして昭和43年(1968)に社会教育施設建築のため多額の寄付をされるなど大きな功績を残された。そのご厚志により建てられた「土倉記念館」は、長年、新山公民館として地区民の研修や集会の場として利用されてきたが、現在は「新山自治会」の活動拠点となっている。また、旧宅である土倉屋敷は、昔の姿に再生され、多くの地区民に利用されている。

 

●ところ 〒714-0007 岡山県笠岡市山口1805

●問い合わせ 0865-69-5011(新山地区自治会)Pあり

🚌井笠バスカンパニー/笠岡~矢掛線〔森ヶ市〕または〔山口〕下車。徒歩5分

🚙山陽自動車道笠岡インターから約10分

 

かさおか古代の丘スポーツ公園と長福寺裏山古墳群

 

笠岡市の北部にある豊かな自然と古代ロマンをテーマとした公園です。サッカーやグラウンドゴルフ、野球場などのスポーツ施設をはじめ、子ども広場、テントサイト13区画のキャンプ場などレクリエーション施設を兼ね備えています。また長福寺裏山古墳群とはかけ橋でつながっており、古代の人々の物語にふれながらの散策が楽しめます。

 長福寺裏山古墳群は、走出・山口地区の境界をなす標高90mほどの丘陵上に所在する市内最大規模の古墳群である。古墳群は、前方後円墳、造出付円墳、円墳、方墳から構成されている。これまで昭和36年(1961)に古墳の中心部分の調査、平成9年(1997)~平成12年(2000)に古墳群の整備に伴う各古墳の範囲確認調査が行われた。出土遺物などから、5世紀代(古墳時代中期)に七つ塚古墳群ー双つ塚古墳ー仙人塚古墳ー東塚古墳の順に築造されたと考えられている。七つ塚古墳群は5世紀前半に築造された4基の方墳からなる。1号墳と2号墳からは、吉備地域で最古段階の初期須恵器が出土している。双つ塚古墳は、5世紀中頃に築造された前方後円墳で備中西部最大規模の古墳である。仙人塚古墳の石室から出土されたと想定される短甲は、現在米国のメトロポリタン美術館に所蔵

されている。東塚古墳は5世紀後半に築造された前方後円墳で、墳長は50mあり、周濠と周庭に囲まれている。古墳群のある山の上では弥生時代後期の円形竪穴住居跡も検出されている。(伝えたいわがふるさとP30-40)(市史 第1巻P201-242)

 

●ところ 〒714-0001 岡山県笠岡市走出3478-4

●問い合わせ TEL0865-65-2100 P 120台

●🚌井笠バスカンパニー/笠岡~矢掛線〔森ヶ市〕または〔山口〕下車。徒歩30分

●🚙山陽自動車笠岡インターから約20分

木山捷平生家

 

木山捷平の紹介

 木山捷平は、昭和初期から戦中・戦後を通じて小説家・詩人として活躍しました。庶民的でユーモアのある文章は、今でも多くの人に親しまれています。捷平のふる里が、笠岡市の山口で、今でも、長福寺がある山の麓には、彼の住んでいた家が残っています。家はさほど大きな屋敷ではありませんが、のどかな田園の一角に

あって、捷平文学の素地が、このような環境の中で育まれていったのだということがよくわかります。紹介者(安東康宏)

 捷平の生家は、笠岡市山口竹ノ内地区の中央に今も美しい姿で現存している。木山捷平は、明治37年(1904)笠岡市山口に生まれる。姫路師範学校卒業後、教員となるが、大正14年(1925)文学で身を立てるべく上京し、東洋大学に入学、詩誌「朝」同人となる。井伏鱒二を知り、小説を発表し始める。郷愁を底にユーモアとペーソスの交錯する短編小説は、たびたび芥川賞・直木賞候補となる。昭和19年(1944)文学活動の新天地を求めて満州に渡るが、現地召集を受けて入隊、特攻訓練中に敗戦を迎える。苦しい難民生活を経て21年(1946)に帰国、故郷に帰る。24年(1949)に上京、都会生活や旅行、渡満体験などを題材とした意欲作を次々に発表する。「耳学問」で多くのファンを獲得。37年(1962)出版の長編小説「大陸の細道」が芸術選奨文部大臣賞を受賞し、文壇での地位を確立した。43年(1968)64歳の若さで逝去。ふるさとの山口の地にねむる。捷平の墓は長福寺へ登る坂道の中程にある木山家の墓地、その中央に自筆の木山捷平の墓がある。

 

●ところ 笠岡市山口742

●🚌 「楠」バス停から徒歩15分

●🚙 山陽自動車道笠岡インターから約20分